今日は、びっくりするくらい何もできなかった。
いや、正確に言うと「何もしていない」わけではない。
ご飯は食べたし、寝たし、AIと壁打ちもした。
でも、自分の中では「進んだ」と思えるものがなかった。
私はAIクリエイターなので、普段は毎日なにかしら作っている。
ミュージックビデオを作ったり、アニメーションを作ったり、画像を作ったり、企画を練ったり。毎日ひとつは、何かしらクリエイティブなことをしている感覚がある。
それが今日は、全然なかった。
作る気になれなかった。
手が動かなかった。
頭は動いているのに、形になるものが出てこない。
こういう日は、地味にショックを受ける。
いつも手を動かしている状態って、結構安心する。
何かに夢中になっていると、自分が前に進んでいる感じがするから。
「今日も生み出した」
「昨日より少し進んだ」
「私はちゃんとやっている」
そう思えることって、かなり大事な精神安定剤なのだと思う。
逆に言うと、手が止まると不安になる。
今日、何も生産的なことができなかったな。
この時間は何だったんだろう。
私はちゃんと前に進んでいるんだろうか。
そういう、うっすらした焦りが出てくる。
しかも私はフリーランスで、在宅で、基本的にひとりで仕事をしている。
外に出なくても一日が成立してしまう。
今日は外にも出なかった。
ずっと家にいた。
別に体調がめちゃくちゃ悪かったわけでもない。
ご飯も食べた。
たくさん寝た。
AIと壁打ちもした。
でも、何かを作る手は進まなかった。
この「一見ちゃんと生きてはいるけど、創作としては何も進んでいない感じ」が、けっこうもやもやする。
ただ、今になって思うと、今日はたぶんそういう日だったのだと思う。
最近、ちょっと走りすぎていた。
一日一本ミュージックビデオを出す、みたいなペースで動いていた時期もあったし、何か思いついたらすぐ形にして、すぐ出して、また次を作る、ということをずっとやっていた。
それは楽しい。
本当に楽しい。
私はやっぱり、作っているときが好きだ。
夢中になっているときが好きだ。
自分の中にあるものが、目に見える形になっていく瞬間が好きだ。
でも、楽しいからこそ、知らないうちに自分を急かしていたのかもしれない。
それに、昨日読んだ本の余韻もかなり大きかった。
朝井リョウさんの『イン・ザ・メガチャーチ』を読み終わってから、ずっと頭の中に残っている。昨日もラジオで話したけれど、あの本はなかなか抜けない。
幸せって何だろう。
救われるって何だろう。
自分が信じているものって何だろう。
私はどこに向かいたいんだろう。
そういうことを、ぽやぽやとずっと考えてしまっていた。
すごい作品って、終わったあとに始まるんだと思う。
読んでいる時間だけじゃなくて、読み終わったあとの生活にまで入り込んでくる。
ご飯を食べていても、スマホを見ていても、何かを作ろうとしていても、ふと引っかかる。
ああいう作品を作れる人は、本当にすごい。
観た瞬間に気持ちいい作品もある。
派手なアクションがあって、カーチェイスがあって、爆発して、アドレナリンが出て、楽しかった、終わり。
それはそれで最高。
でも、それとは別に、終わったあとも心に残り続ける作品がある。
時間差で効いてくる作品がある。
自分の人生観のほうに手を伸ばしてくる作品がある。
私は、そういうものに弱い。
昨日からずっと、その余韻を引きずっていた。だから今日は、単純に「サボった日」ではなくて、立ち止まらされた日だったのかもしれない。
進むことは気持ちいい。
作って、出して、反応があって、また作って。
そのサイクルに入っているときは、かなり快楽がある。
「私は前に進んでいる」
「ちゃんと積み上げている」
「未来を作っている」
そう思えるから。
でも、進むだけが人生ではない。
たまには立ち止まって、
自分はどこに行きたいのか。
何を大事にしたいのか。
今の走り方は、自分の美学に合っているのか。
そもそも、何のために作っているのか。
そういうことを見直す時間も、たぶん必要なのだと思う。
何も作れない日は、何も生まれていない日ではない。
外から見えないだけで、内側では何かが沈殿している日もある。
焦りもある。悔しさもある。
「今日の私は何だったんだ」と思う気持ちもある。
でも、そこで自分を責めすぎなくてもいい。
足るを知りつつ強欲に。これは私が大事にしている言葉だけれど、今日みたいな日こそ必要なのかもしれない。
足るを知る、というのは、今の自分を甘やかすことではない。
強欲に、というのは、毎日ずっと走り続けることでもない。
今の自分にあるものをちゃんと見て、受け入れる。
そのうえで、欲しい未来は遠慮しない。
その両方を持つこと。
今日は何もできなかった。
それは事実。
でも、何もできなかった自分を即座に「ダメ」と切り捨てるのは、少し雑なのかもしれない。
走れない日には、走れない理由がある。
手が止まる日には、手が止まるだけの何かがある。
その何かをちゃんと見に行くことも、創作の一部なのだと思う。
私は普段、AIの使い方とか、クリエイティブの話とか、役に立つノウハウっぽいことを話すことが多い。
それはもちろん大事。
分かりやすく有益だし、誰かの助けになる。
でも最近思うのは、有益さってノウハウだけじゃないということ。
うまくいかなかった日の話。
手が止まった日の話。
自分の弱さに少しびっくりした日の話。
考えすぎて、何も形にできなかった日の話。
そういうものにも、ちゃんと意味がある。
むしろ、AIでいくらでも情報が出てくる時代だからこそ、その人の一次体験とか、弱さとか、揺れとか、体温みたいなものの価値は上がっていく気がする。
完璧なノウハウよりも、
「この人も立ち止まるんだ」
「この人も何もできない日があるんだ」
と思えることに、救われる瞬間がある。
だから今日は、何もできなかった日のことを、そのまま残しておく。
今日は何もできなかった。
でも、何もなかったわけではない。
たぶん私は、立ち止まっていた。
自分の中にあるものを、少し見直していた。
次に進むための余白を、無理やり作らされていた。
そういう日だった。
明日はまた何か作るかもしれない。
作らないかもしれない。
どちらにしても、私は私の速度で進む。









